偉人・敗北からの教訓
ドキュメンタリー/教養
偉人・敗北からの教訓 第78回「太原雪斎・今川家の繁栄を維持できなかった軍師」
今川義元の教育係で軍師を務めた僧・太原雪斎の敗北を紐解く。雪斎の死後、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、今川家が滅亡の道を辿ることになってしまった理由とは?
2月1日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン
「黒衣の宰相」と呼ばれた今川家の軍師・太原雪斎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1496年、駿河国に生まれた雪斎は京都の建仁寺などで修行を積み、頭角を現すと、その評判を聞きつけた駿河の大名・今川氏親から義元の教育係に抜擢される。1536年、今川家当主・氏輝が亡くなると、義元は後継者の座を巡り、兄・玄広恵探と敵対。この時、雪斎は恵探を自刃に追いやり、義元を今川家の当主に据えることに成功する。
僧でありながら今川家の政治・外交・軍事を司ることになった雪斎は1549年に西三河を制圧。さらに、雪斎が青写真を描いたと言われる三国同盟により、今川氏は武田氏、北条氏と共に東日本を代表する勢力へと成長を遂げる。しかし、1555年に雪斎が亡くなると、5年後、義元が桶狭間の戦いで討死し、今川氏は10年と持たずに滅亡してしまう。雪斎はなぜ、今川家の繁栄を維持することができなかったのか?
雪斎と義元の死後、当主・氏真は今川家を死守しようと奮闘するが、武田信玄が三国同盟を破棄し、徳川家康と共に今川領を攻撃。領地の大半を失った氏真は降伏を余儀なくされ、この時、大名としての今川家の歴史は終わりを告げる。その後、戦乱の世を勝ち抜き、天下泰平の世を実現したのは、義元と同じく雪斎から薫陶を受けた家康であった。義元と家康の違いは一体、どこにあったのか?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。
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