偉人・敗北からの教訓
ドキュメンタリー/教養
偉人・敗北からの教訓「九鬼嘉隆・関ヶ原で息子と敵対した海賊大名の行く末」
戦国最強の水軍を率い、二人の天下人を支えた九鬼嘉隆の敗北を紐解く!関ヶ原の戦いで西軍に付き、志摩で奮戦するも、敗戦を知らされた直後に自害してしまった理由とは?
3月28日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン
江戸時代の軍記物で「海賊大名」とも称された九鬼嘉隆の敗北から現代に通じる教訓を探る!
1542年、志摩国の国衆・九鬼定隆の次男として生まれた嘉隆は志摩の地頭連合との戦いに敗れ、若くして志摩を追われてしまう!
ところが、1568年に上洛した織田信長の家臣となり、運命が好転。1578年、嘉隆は巨大な鉄甲船6艘を造り、第二次木津川口の戦いに挑み、毛利水軍を撃破。37歳にして、志摩一国の大名に躍進した!
1582年、本能寺の変で信長が横死すると、嘉隆は羽柴秀吉に従い、一連の天下統一戦に従軍。さらに文禄の役では大船「日本丸」を率いる水軍大将として武勇を示した。
1600年、天下分け目の戦いが勃発すると、息子の守隆は徳川家康に従い、東軍に付いたが、嘉隆は石田三成に懇願され、西軍に付き、親子で敵対!関ヶ原での敗戦を志摩で知らされた嘉隆は自ら命を絶ってしまった!
嘉隆はなぜ、切腹を即断してしまったのか?
守隆が父・嘉隆を弔うために建てた常安寺には、守隆が寄進した石灯篭と共に嘉隆が切腹に使ったとされる貴重な短刀が残されている。嘉隆が自害した後、一旦、京都に運ばれた首はその後、守隆により鳥羽湾と鳥羽城を望む答志島の高台に埋葬されたと伝えられている。先祖伝来の造船技術を駆使し、幾多の海を渡り、二人の天下人を支えた嘉隆の人生とは何だったのか?
嘉隆の敗北から学ぶ教訓は…「自らの特殊性に驕るな」!
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。
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