偉人・敗北からの教訓

ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓 第85回「松平定信・度が過ぎた寛政の改革」

江戸時代中期に寛政の改革を手掛けた松平定信の敗北を紐解く。腐敗した政治を改め、社会を改善すべく奔走するも、わずか6年で老中の職を解かれてしまった理由とは?

3月22日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン

偉人・敗北からの教訓 第85回「松平定信・度が過ぎた寛政の改革」

江戸時代、田沼意次の後を受け、世直しに邁進した老中・松平定信の敗北から現代に通じる教訓を探る。1758年、八代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武の七男として江戸に生まれた定信は幼い頃から聡明で田安家を継ぐことを期待されていたが、白河藩主・松平定邦の養子に出され、白河藩主として天明の大飢饉に直面した領民の救済に力を尽くす。定信自ら質素倹約に努めた結果、白河藩は餓死者を出すことなく、この危機を乗り切る。
政治手腕を高く評価された定信は老中・田沼意次が失脚した翌年、30歳という異例の若さで十一代将軍・徳川家斉を補佐する老中首座に抜擢された。腐敗した政治の一掃を目指す定信は、敬愛する祖父・吉宗が手掛けた享保の改革にならい、政治、経済、文化など様々な分野で改革を推進する。ところが、意気揚々と社会の改善に取り組む中、突如、老中の職を解かれてしまう。定信はなぜ、幕府から追放されてしまったのか?
白河藩に戻った定信は、不作により困窮する民を救うため、灌漑用の溜池を持つ南湖公園を造らせた。ここは身分を問わず誰もが気軽に訪問できる憩いの園となる。さらに定信は失われてしまいがちな古美術品を絵に残し、後世に伝える文化保護活動に取り組み、浮世絵師・鍬形ケイ斎に江戸庶民がいきいきと暮らす様子を描かせるなど、文化の発展にも力を尽くした。定信が真に欲していたものとは何だったのか?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。